目次
レース結果
今までの競技歴
中学から本格的に陸上競技を始める
200m/走り幅跳びをメインに、リレーや駅伝など幅広い種目へ挑戦
走り幅跳びで県大会2回出場 県選抜出場(5m50cm)
メニューの組み方やケアを知らずに練習を続けて腰にケガを負う
Q.陸上競技を始めたキッカケは?
一番最初に競技に触れたのは小学生の時、学校のクラブ活動で大会に出たことがキッカケでした。
元々運動が苦手であり、スポーツとは無縁の生活を続けてきました。
最初は「何となく」始めた陸上競技でしたが、練習を重ねる度に速くなることを実感でき、徒競走ではある程度良い順位を取ることができるようになりました。
短距離から始まり、跳躍や長距離走など様々な種目を経験し、徐々に陸上競技の楽しさに気づきました。
集団競技や球技が苦手な私ですが、個人の能力が求められる陸上競技の魅力に次第に惹かれ、中学では陸上部への入部を決断しました。
最初は純粋に速くなりたい気持ちが芽生え、ある時期からは勝つことに意欲が出てきました。
悔しい経験も味わいながら部活を続けましたが、継続する事の根底にあったのは「競技を楽しむ心」です。
ケガを機に高校でマネージャーを経験
4ヶ月のリハビリを経て中距離選手として復帰
400m/800mでインターハイを目指し日々練習に打ち込む
ケガや記録の伸び悩みに対して、自分でメニューを考えたり、動画を観ながら修正を試みるなど、自分なりの方法で強くなる手段の模索を続けた
出場できたレースは少なく、好記録を残すことはできなかった
県大会・東海大会選手の付き添いをする中で目標が見つかる
「競技者をサポートする立場で陸上競技と関わりたい」
Q.高校陸上で苦労したことは?
部活動自体が厳しい高校でしたが、中でも大変だったのは、「練習量が多かったこと」と「専門的な練習ができなかったこと」です。
ケガを機に800m(1500m)の中距離選手として復帰をしましたが、長距離ブロックに所属していたため、秋からは駅伝の練習が中心、慣れない練習でケガを繰り返し、先行きが不透明な1年目でした。
2年目の春は専門的な練習ができたため、ある程度順調にトレーニングが積めましたが、夏からは再び駅伝の練習、レースも専門外の3000mや5000mが増え、勝負を賭けていた800mからは遠ざかることが増えてきました。
練習量も1年目より大きく増え、ケガや不調が重なり、次第に競技に対する熱意が冷めたことも覚えています。
「どうして専門種目に特化した練習ができないのか」
「どうしてトラックと駅伝を両立しなければならないのか」
など、部活動の環境や指導に対して不信感を抱くこともありました。
このままでは競技を続ける意味が無くなり、嫌いになって辞めてしまうとも思いました。
「自分から動いて変わらなきゃ」と思い始めた2年の秋、新人戦地区予選で決定打となる出来事がありました。
専門的な練習が積めていない焦りや、800mの実践から離れていた不安から、勝てるであろうレースで焦って転倒、大きな失敗をしました。
今でも鮮明に覚えているこのレース、この失敗をキッカケに、「最後のインターハイでは後悔したくない」気持ちが強くなり、駅伝を走らないこと、800mで勝つために400mに挑戦する決断をしました。
指導者不在の冬季練習、今までと違う練習の組み方や、当時中距離に馴染みが無かったウェイトトレーニング、練習動画を見直してフォーム分析など、部活ではやらなかった事に挑戦、自身に合った練習を模索しました。
ケガを防ぐために「量より質」を重視して、練習後には専門的なケアや受けたり、入念なセルフケアを行うことを意識。
ケガのリスクを下げながら、スピードに特化した体づくりができた気がします。
しかし、自分に合っているトレーニングや調整が見つかった頃には、インターハイが終わっていました。
3年で自己ベストを大幅に更新しましたが、周囲のレベルアップには全然着いて行けず、地区予選で引退となりました。
※800m PB:2’05’82
今思い返しても遠回りをした3年間だと思いますが、ある意味、この苦労が今の私を作っていると感じています。
「短い高校の3年間、私が関わる選手たちには同じ経験をして欲しくない」この想いが、プロの治療家を目指す原動力の一つです。
専門学校入学後 市民ランナーとして活動を始める
トラックレースからロードレースへ転向
静岡県内の様々なレースへ出場
独学でフルマラソン サブ3.5達成(3゚23’26)
ハーフマラソン サブ1.5達成(1゚23’05)

Q.ロードレースに転向した理由は?
高校で競技からは離れましたが、定期的にトレーニングは継続していました。
ロードレースで競技を続けたキッカケは、専門学校の同期からの誘いでした。
最初はjogを中心に、高校ではやってこなかった「距離を踏むこと」をベースに練習を行い、少しずつ距離を伸ばしていきました。
高校時代とは違い、トラックでの練習環境が無くなったことで、自然とロード練習へ移行できました。
5kmのレースから始まり、次第に10kmへ、次第に「一度はフルマラソンを走ってみたい」と思うようになり、2年目にフルマラソンへエントリー。
何となく目標をサブ3.5に設定、達成するために1年かけて試行錯誤、「スピードを活かしたレース展開をする」ことをトレーニング方針として、月間走行距離に拘らない練習を実践しました。
結果として、月間150km/20km以上のロング走無しでフルマラソン サブ3.5を達成。
当時一般的とされていた、月間200〜300kmを走らず、30km走をすること無く、目標達成ができました。
その頃には5km〜ハーフマラソンの記録も伸びましたが、残念ながらレースで入賞することはありませんでした。
それでもランニングを楽しむことができていたため、国家試験の受験期までは走ることを継続していました。
専門学校卒業後 働きながら市民ランナーとして活動を続ける
ランニングを楽しむことを第一に様々なレースへ出場
最新の理論やシューズを試しながら、施術やパーソナルトレーニング、トレーナー活動へフィードバックを行う

高校でのトレーナー活動でスプリンターのサポートをする機会が増え、スプリンター特有の障害を防ぐ方法を考え始める
ランナーとして活動する一方で、スプリントトレーニングを取り入れつつ、スプリンターのケガについて考察を行っていた

Q.社会人ランナーで大変だったことは?
2024年 最新のトレーニング理論を求めてスプリンターに転向
2024年、セミナー参加をキッカケにPEAK Support 川端公人コーチの元で本格的にトレーニングを始める
実業団経験者、現役スプリンターのサポートを受け、施術やトレーナー活動に繋げるための経験を重ねる

伊東市を拠点とするクラブチーム Runwayに所属
トレーニング中に半月板断裂を起こし、選手としての活動を中断

2025年 スプリントチーム【PEAKS】に所属
静岡県東部を拠点とするスプリントチーム「PEAKS」の立ち上げをサポート
チームトレーナーとして所属選手のサポートを行う

競技復帰のために半月板切除の手術を行う
自身でリハビリメニューを計画、川端公人コーチのサポートを受け、術後5ヶ月でレース復帰を果たす
